放送法64条1項の終焉
要旨 放送法は昭和25年に制定された。放送は電波という特殊な媒体を介して届けられる。戦後間もなくの時代、この電波というものは、一度、発射されると、これをどこの誰が傍受しているか分からなかった。利用者を特定できないので、ラジオの設置をもって、放送の利用者とした。この規定には、NHKを聞いていない者からも料金を徴収するかもしれない、という不公平を内在していた。しかし、利用者を特定できない以上、こうするほかに、料金を徴収するすべがなかったのだ。放送の主役はテレビに移り、更に、放送方法もアナログ放送から、デジタル放送へ移行した。この間の技術革新はすさまじく、現在、放送を視聴している者と、していない者を選別することが出来るようになった。ここで、放送法64条1項の存在意義は失われるのである。 |
<疑問の提起>
衣食住、電気、ガス、水道、これらは人が生きてゆくうえで、必要欠くべからずのものである。ところでNHKが主に提供しているものは、「娯楽と情報」である。これらは人の暮らしを、より豊かに、より便利にするが、前述の「衣食住、電気、ガス、水道」のように、人が生きてゆくうえで、必要欠くべからずのものとは言えない。
電気、ガス、水道、についてさらに話をすすめてみると、これらは、地震、台風、洪水などの災害が起きた時、その重要性をあらためて、我々に知らしめる。
NHKが提供しているものの一つ娯楽は、人が生きて行けて、生活に余裕ができて初めて、追加されるものであって、食うか食わずの時に、娯楽を第一に求める者などはいまい。また、NHKが提供しているもののもう一つ、情報についてさらに触れてみよう。例えば、事前の予知が難しい地震、雷、洪水などの災害が起きた時、提供される情報は、主に事後報告であり、災害予防には役立たない。さらに、テレビ放送を例にとれば、災害が起きた時、テレビ放送にもかかわらず、災害が起きたところの役所に電話で話を聞いているところを映しているしまつである。事実を正確に素早く、知らせるというのであれば、災害が起きた地域の役所の災害担当部署が、直接地域の人、あるいは国民にインターネットやJ-アラートなどを利用して知らせたほうが理にかなっている。
情報の早期伝達ということでは、特に最近問題になっている、北朝鮮のミサイル発射を知らせる、Jアラートがあるが、これなども、NHKとは何らかかわりはない。
このように、電気、ガス、水道、などと比べて、人が生きてゆくうえでの優先順位が著しく低い「娯楽と情報」を提供しているNHKが、なぜ「放送法」で優遇ともいえる文言で規定されているのであろうか。
例えば、上述の電気、ガス、水道を放送法64条1項の文言を借りて、表現するならば、次のようになるだろう。「電球を買った者は、電力会社と契約しなければならない」、また、「やかんを買った者は、ガス会社と契約しなければならない」、さらに、「バケツを買った者は、水道局と契約しなければならない」、など。このようなことが法律で規定されたとして、これを疑問に思わない者がいるだろうか。放送法64条1項はまさに、この疑問を提起させる。
<電波の特殊性>
これは取りもなおさず、「電波」という特殊性がなせることなのだ。電波はアンテナから発射されると、空間を無限に広がってゆき、この電波を誰が傍受しているか、戦後放送法が制定された時代、これを知ることができなかった。NHKが提供している「娯楽、情報」がまさにこの電波という媒体を介して提供されているのである。まさに、放送というものが電波を媒介として、提供されるところに、「放送法64条1項」が必要となる、原因があるのだ。
電気、水道、ガスなどは、それらを利用する者を特定できる。つまり、電気なら電気メーター、水道なら水道メーター、ガスならガスメーターを、それぞれの利用者の敷地内に取り付け、どこの誰がそれらを使っているか一目瞭然の状態にある。
一方、電波を使った放送は、最近までその利用者を特定することができなかった。放送法が制定されたのは、昭和25年ころ、戦後間もないころだ。このころは、ラジオの時代で、ラジオ放送局もNHK1社しかない時代である。つまりラジオ局がNHK1社しかない状況では、ラジオを買うことは、NHKの放送を聞くことを意図していた。だから、「設置者=利用者」としても、問題はなかった。放送を聞くために、ラジオを買い、NHK1社しかない場合、ラジオを買うのはNHKを聞くためである。
また、この時代、放送はアナログ放送で、電波で流すと、どこの誰が放送を聞いているかを特定する事が出来なかった。この状況の中では、ラジオを設置した者を放送の利用者とすること以外に、受信料を徴収する相手方を特定する方法がなかった。利用者を特定できない以上、「設置者=利用者」とし、受信料を徴収するしかない。
前述のように、放送局がNHK1社の場合、「設置者=利用者」としても、何ら問題は提起されなかった。だが、その後、ラジオ局が複数になると、「ラジオを設置」=「NHKの利用」とはならない状況が出現する。ラジオを設置しても、NHKを聞いていない者もいる可能性があるからだ。しかし、「私は、NHKを聞いていないので、受信契約をしない」と申し立てても、この時点では、これを認める事が出来ない。電波を使った放送で利用者を特定できない以上、「NHKの放送を聞いているかもしれない」と推定することを認める以外に方法がなかったのだ。ただし、この規定には、NHKの放送を利用していない者からも、利用料を徴収している不公平を内在している。利用者を特定できないので、ラジオの設置をもって、NHKを利用していると推定した規定には、NHKを利用していない者の理不尽な思いがあるのだ。その不公平感は大きいといえる。NHKは、その不利益を受けている者への説明に「公共の福祉」という言葉で対応しようとしているかもしれない。しかし、「公共の福祉」では、不利益を被った者へは、正当な範囲でその不利益は補填されるのである。さて、NHKは、放送法64条1項で不利益を被る人にどのような補填をしているだろうか。何もしていない。NHKは、それは法律で決まっていることで、我々はただ、法律に従っているだけだ、その法律は我々が決めたことでもない、文句があるなら、その法律を作った政治家に言ってくれ、とでも主張するであろうか。それならば、「公共の福祉」という言葉は使うべきではない。
<ラジオからテレビへ>
さらに時代は進み、放送はラジオの時代から、テレビが主役の時代へ移行する。だが、放送はまだアナログの時代である。放送法の「受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない」という規定は、そのまま受け継がれる。つまり、ラジオからテレビに放送の主役が入れ替わったといっても、電波を利用していることに変わりはなく、依然として、利用者を特定できないのである。「利用者→契約者」ではなく「設置者(=利用者)→契約者」との構図はそのままである。その結果、NHKを利用していない者からも、料金を徴収しているかもしれないという、不公平を内在したままでである。
<放送法64条1項の役割のおわり>
そして、さらに時代が進み、衛星放送が、デジタル形式で開始される。そして、とうとう、地上放送もデジタル化への移行が完了した。地上、衛星ともデジタル放送が行われたことで、放送法64条1項の意義、役割はここで終了したといえる。つまり、前述のように、放送が電波を媒介として提供されるため、番組を利用している者と利用していない者を判別することができなかったのであるが、いまや、放送業界をめぐる環境と技術の革新が著しく進み、それができるようになったのである。だれがNHKの番組を利用しているか、判別できるテレビメーターを導入することができるようになったのだ。このテレビメーターの導入により、放送法64条1項の役目は終了することになるのである。
<テレビメーターの導入> = <スクランブルの導入>
テレビメーターが導入できるようになった、ということの証明。現在(平成29年9月NHK以外に、有料テレビ局が数社ある。これらのテレビ局が商業営業できるということは、自社の放送した番組が、どこの誰が利用しているか分かる技術があって初めて可能なのである。間接的ではあるが、このNHK以外の有料テレビ局が存在するということをもって「テレビメーター(=スクランブル化)の導入が可能である」ことの証明とする。
放送法64条1項には、NHKの番組を聴視していない者からも、料金を徴収しているかもしれない、という不合理が内在していた。しかし、それはNHKを聴視しているか、いないか、を判別するのが技術的に不可能であったため、間接的に、受信機の設置をもってNHKを利用していると規定した、やむをえない事情からなのだ。NHKは、受信料の徴収について、よく「受信料の公平負担」という言葉を使う。しかし、放送法64条1項に内在する、「NHKを見ていない者からも受信料を徴収しているかもしれない」という不公平には、口を噤んだままである。NHKが真に受信料の公平負担を主張するならば、テレビメーターを導入し、NHKを利用しているか、いないかをはっきりさせる必要がある。そして、聴視している者から受信料を徴収することに、何ら問題ない。もし、聴視しているにもかかわらず、受信料を支払わなければ、テレビメーターで、放送の供給を止めればよい。これこそが、真の受信料の公平負担である
電気、ガス、水道など供給を止められれば、生存にかかわる非常に厳しい事態に陥る。それでも、料金を払わなければ、供給は直ちに止められる。「生活が苦しい」、「お金がない」からと言っていくら泣き付こうが、問答無用それらは使えない。一方、NHKの提供している、「娯楽と情報」は供給が停止されたとしても、生存が危ぶまれる事態に陥ることはまずない。テレビなしで暮らしている者は相当数いると思われる。それらの者も、生きてゆくには、電気、ガス、水道、は必要だ。つまり、NHKの提供している「娯楽と情報」は人が生きてゆくうえでの、必要順位は極めて低いのである。
また、受信契約のさい、「うちは、NHKを見ませんので、契約しません」という者には、これまた、テレビメーターで供給を止めればよい。この者は当然NHKの番組は聴視できないし。これにより受信契約、受信料をめぐるトラブル、また訴訟による争いなどは激減するであろう。これにより、裁判の脅しから解放され、NHKの番組を利用していない多くの人々は安心して暮らせるのである。
<NHKの存在意義>
そもそも、NHKがそれほど必要なのか、という、素朴な疑問が提起される。放送法64条1項の規定は、戦後間もないころの昭和25年ころに制定された(当時は放送法32条)。そのころはまだ、テレビはなく、ラジオである。それも、NHKただ1局である。そのころは、今に比べれば、NHKの存在は非常に大きく、映画、雑誌を除けば「娯楽と情報」を提供する唯一なものと言ってもいいほどだ。
しかし、今、「娯楽と情報」を提供する、媒体は、ラジオ、テレビ、映画、新聞、雑誌、本、インターネット、スマートホン、タブレット、のように、身の周りにあふれている。
ラジオはキー局数社、地方局、FM局を含めて、数えるのが難しいほどだ。
テレビ局は、関東地域でいえば、日本テレビ、テレビ朝日、TBSテレビ、テレビ東京、フジテレビ、これらのテレビ局が、地上デジタル局、BSデジタル局とある。BS専門局も20局ほどある。このほか、ケーブルテレビ局も存在する。また、有料のテレビ局も数社登場した。
またとくに近年、スマートホンの発達、インターネットのYouTube(ユーチューブ)とうの発展により、個人が放送局を持つことができる時代となった。もう、既存の放送局だけが情報を発信できる時代は、終了したのである。個人が、スマートホンを用いてYouTubeを通じ、情報をライブに発信出来るまでになった。この動きは特に若者を中心に拡大しつつある。これにより、HNKを含め既存の放送局の存在価値は低下しつつある。
パソコンを利用してのインターネットは、「情報」収集に関しては非常な威力を発揮している。買物、予約、銀行機能、各種調査、などテレビがほぼ一方的に情報を流しているのとは違い、自分が欲しい情報を的確に入手することができる時代になったのである。
また、特に最近著しく普及している、スマートホンは、電話機能に加え、メール機能、さらにインターネット機能を加え、ツイッターなど情報の相互送信が可能である。このように、戦後の放送法ができた時と、時代は当時想像も出来なかったくらい激変している。
新聞も全国紙数社、地方紙、業界紙は数しれない。
各種、本、雑誌は町にあふれ、国、県、市町村は図書館をそれぞれ設置している。ここでも、「娯楽と情報」があふれている。
このように、我々を取り巻く社会状況が激変した中で、昭和25年に制定された法律をそのまま解釈し、現在に適用することは、時代錯誤と言わなければならない。時代の変化を考慮することなく、もちろん、古い法律でも現代に適合する合理性があるならば、なんら問題はないが、テレビメーターを導入することが可能になった今、放送法64条1項の適用は、まさに時代錯誤を象徴しているものである。ゆえに、放送法64条1項は、地上放送がデジタル化されたときに、破棄、または改正すべきものだったのであるが、そのままである。これはまさに、政治の怠慢と言わなければならない。
<放送法64条1項は宝の山>
NHKにとって、放送法64条1項は宝の山なのだ。
そもそも、電波を使っての放送は、他の物資の提供やサービスの提供とは著しく異なる点がある。それは、一度番組を作て、アンテナから発射すれば、それを受信する者が、10人だろうが、1,000,000人だろうが。掛かるコストほとんど同じだということだ。。利用する人数が増えても、コストは同じなのだから、人数が増えれば増えるほど収入も増えるのだ。
比較のために、電気、水道、ガス、などの例を上げれば、これら物資の提供は、利用者が増えれば、収入も増えるが、それに比例して、コストもかかる。放送は利用者が増えてもコストは同じ、このため利用者が増えた分は、収入になる。
このため、不祥事を起こして不払いが多発し、経営にダメージを受けて以降、モラルを無視し、強引な契約勧誘、支払催促を行うようになった。NHKの良心はこの時失ったといえる。
また最近では、放送法64条1項を拡大解釈し、テレビ以外の、1セグ機能を備えた、スマートホン、カーナビ、タブレット、など所有者に受信契約を迫る行動に出ている。また、パソコンにも同様な動きがある。これは、由々しき問題だ。今までは、テレビがあるかないかが、受信契約の締結問題だったのだが、今後、スマートホン、カーナビ、タブレット、パソコンの有無でも、契約締結の必用、不必要の問題になりつつある。テレビを見ない若者でも、多く者が、スマートホン、カーナビ、タブレットを所有しているだろう。テレビがないからNHKとの受信契約など関係ないと思っているかもしれないが、とんでもない。すでに、NHKはテレビがなくても、スマートホン、カーナビ、タブレット、パソコンを所有している若者に受信契約を迫っているのだ。そして、万一契約してしまったら、この解約は不可能といっていい。NHKの放送を利用していないのに、不本意ながらも受信契約をしてしまったら、料金を払ってはいけない。そう、料金不払いで対抗するのだ。そして、その後の対策は「立花孝志氏」のホームページを参考にすることだ。
スマートホン、カーナビ、タブレット、パソコンなど、その数や、大げさに言えば天文学的と言える。放送法64条1項の規定は、それらからの受信料の徴収を可能にするかもしれないのだ。(現在、裁判での判決は判断が分かれており今後の推移が注目される。)もし、それが確定されれば、NHKに、まさに金鉱脈を与えるようなものだ。本当に、ここで反対の声を上げなければ、将来に悔いを残す事になるであろう。特に、これは多くの若者に最も関わってくる問題と認識しなければならない。
スマートホン、カーナビ、タブレット、パソコンなどの総数は、天文学的数字になる。これらを所有する者と公平に受信契約するなど、不可能なことと言わなければならない。NHKはその不可能なことを無視して、「受信料の公平負担」という名目でこの「宝の山」の発掘に挑んでいるのである。
NHKは、反論として、その法律を作ったのは我々ではない、我々はその法律に従っているだけだ。文句があるなら、政治家に言ってくれ、というだろう。
<結論>
このように述べてきたように、放送法64条1項というものは、電波を介して、番組を提供しているので視聴者を特定できなかった、そのため必用だったのだ。本来ならば、「NHKを利用する者は」としなければならないところを「受信機を設置した者は」と間接的に、利用者を推定しているのである。この不公平を内在した、特殊な状態を維持したまま、今日まできたのであるが、放送を利用している者といない者が判別できるようになった今、これを公平な、正常な状態にしようと主張するのである。つまり、放送法64条1項の破棄、または改正が必要となる。NHKに改革をせまり、政治家を動かし、それを実現可能にする唯一の方法は、今一人ひとりが、声を上げるしかない。
おことわり、この基本文で使用した文言・表現は今後展開する別ページでたびたび使用します。