筑波大学の準教授、掛谷英紀氏の研究室が開発した、テレビでNHKの放送だけが映らようにする、機器である。
イラネッチケー | 画像は アマゾン 販売ページより引用 直径約 2 cm 長さ 75cm 重さ 55g |
これをテレビのアンテナ取り付け用のジャックに取り付ける。地上派用、BS用の2種類がある。NHKの放送を見ないようにするためには、地上用、BS用の2本を取り付ける必要がある。
さて、このイラネッチケーを「希望の光」と呼ぶには、次のような事情による。
放送法64条1項には、次の記述がある。
[第1項] 協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。ただし、放送の受信を目的としない受信設備又はラジオ放送(音声その他の音響を送る放送であって、テレビジョン放送及び多重放送に該当しないものをいう。第126条第1項において同じ。)若しくは多重放送に限り受信することのできる受信設備のみを設置した者については、この限りでない。 |
この規定では、テレビを買って、家に置いて見れるようにすると、NHKと放送を見る契約をしなければならない、としている。だから、NHKはテレビを見る、見ないにかかわらず、テレビが見れる状態になったら、契約するする必要がある、と説明するのである。この規定の、不公平性は別のページでたびたびふれてきた。
このイラネッチケーの記事をネットで始めて読んだとき、「あ~、これは救世主だ」と叫んだ。まさに歓喜の雄叫びである。このイラネッチケーを取り付ければ、NHKの番組を見れなくなるので、「放送を受信することのできる受診設備」とはならない、ゆえに受信契約をする必要がないことになる。このことは、放送法64条1項の規定を無力化、無効と同じ効果を得るのである。まさに、NHKの放送を利用していない者にとって朗報、希望の光なのである。
しかし、いろいろなネットの記事を読み進めてゆくうちに、最初の喜びが、不安から、徐々に、怒りに変わってゆく。NHKに対する怒りである。
放送は電波という媒体を介しておこなわれている。この電波は、一度発射されると、どこの誰が受信しているか判別することができなかった。放送を視聴している者を特定できないという特殊性のため、「受信機を設置(=利用者)したものは~契約しなければならない」と間接的に、利用者を推定するよりほかに、利用料を徴収する方法がなかったのだ。この利用者を間接的に推定しているため、「放送を視聴していない者からも、受信料を徴収している」という、不公平を内在しているのだ。
それを考慮すれば、本来イラネッチケーを取り付けるまでもなく、「私は、NHKの放送を利用しませんので、受信契約をしません」で済むべきものなのだ。それにも関わらす、「私は、NHKの放送を利用しません」と利用しない旨を表明し、さらに「NHKの放送を利用できないように、NHKの放送を受信できなくする機器(イラネッチケー)を取り付けました」と行動でも、このことを表した。にもかかわらず、NHKはこれを認めようとしないのである。その理由として、「イラネッチケーは簡単に取り外せる」からとしている。
「見ません」と意思を示し「見れなくなる」機器まで付けて行動でも示したのに、認めないという、NHKの放送はそうまでしても守られるほど、実生活で必要なのか。素朴な疑問が沸き上がる。そこで、思い出されるのが、「トイレットペーパーとNHK」のページで用いた表現である。その文をみたび見てみよう。
NHKが自身の放送を、公平、中立、公共の福祉、公共放送、あまねく、災害報道、教育、文化の継承、とうの言葉を使い、NHKの放送がないと、国民の生活に重大な支障が出るがごとく宣伝している。しかしながら、いくらこれらの言葉を並べても、実態としてNHKの放送がどれほど実生活での必要性があるのか分からない。これは一度、検討してみる必要があると思い、以下の例文を使用したのである。
比較は「水道」と「NHKの放送」から始まる。
水道、もしこれが何かの事情で明日止まるとして、生活に支障がでるだろうか。これは、出るところの騒ぎでない。今から、ご飯はどうする、洗濯はどうする。お風呂はどうする。生活は大混乱である。それに対して、NHKの番組が見れなくなるとして、明日生活に何か大きな支障が起きるだろか。特に思い浮かばない、強いて挙げれば「朝の連続小説が見れない」くらいだろうか。天気予報は、NHK以外でも見れるし。交通情報も他の放送局で見れるし、はて、NHKがなくて困ることはと聞かれて、困ることは思いあたらない。
そうすると、次の関係か成り立つ。つまり、水道の供給のほうが、NHKの放送より生活に必用な優先順位が高いということになる。その関係を次の式で表すと、
「水道>NHK」
のように表せる。これはNHKの放送が概念ではなく「目に見えて誰にでも分かりやすく」するための、工夫である。
次に、ガスを例にとって見よう。
ガス、これが何かの事情で明日止まるとして、生活に支障がでるだろうか。これも、出るところの騒ぎでない。今から、明日の朝、昼、晩のご飯はどうする、赤ちゃんがいる家庭ではミルクを作るためのお湯の確保も必要だ。また、お風呂もどうする。生活は大混乱である。それに対して、NHKの番組が見れなくなるとして、明日、生活に何か大きな支障が起きるだろか。特に思い浮かばない、強いて挙げれば「朝の連続小説が見れない」くらいだろうか。天気予報は、NHK以外でも見れるし。交通情報も他の放送局で見れるし、はて、NHKがなくて困ることはと聞かれて、困ることは思いあたらない。
そうすると、次の関係か成り立つ。つまり、ガスの供給のほうが、NHKの放送よりより生活に必用ということになる。その関係を次の式で表すと、
「水道、ガス>NHK」
のように表せる。これは上述のようにNHKの放送が概念ではなく「目に見えて誰にでも分かりやすく」するための、工夫である。
次に、電気を例にとってみよう。
電気、これも何かの事情で明日止まるとして、生活に支障がでるだろうか。これも、出るところの騒ぎでない。電灯がつかない。NHKどころか、テレビ自体見れない。電子レンジ、トースターも使えない。エアコンも使えない、夏なら大変なさわぎである。このように生活は大混乱をきたす。それに対して、NHKの番組が見れなくなるとして、明日生活に何か大きな支障が起きるだろか。特に思い浮かばない、強いて挙げれば「朝の連続小説が見れない」くらいだろうか。天気予報は、NHK以外でも見れるし。交通情報も他の放送局で見れるし、はて、NHKがなくて困ることはと聞かれて、困ることは思いあたらない。
そうすると、次の関係か成り立つ。つまり、電気の供給のほうが、NHKの放送より生活に必用な優先順位が高いということになる。その関係を次の式で表すと、
「水道、ガス、電気>NHK」
のように表せる。
次に、交通機関(バス、電車など)を例にとってみよう。
同じように、交通機関が、何かの事情で明日止まるとして、生活に支障がでるだろうか。これも、出るところの騒ぎでない。通勤はどうする。通学はどうする。病院はどう行く。人の流れが止まり、経済は、普段の生活は大混乱をきたす。それに対しNHKの番組が見れなくなるとして、明日、生活に何か大きな支障が起きるだろか。特に思い浮かばない、強いて挙げれば「あさの連続小説が見れない」くらいだろうか。天気予報は、NHK以外でも見れるし。交通情報も他の放送局で見れるし、はて、NHKがなくて困ることはと聞かれて、困ることは思いあたらない。
そうすると、次の関係か成り立つ。つまり、交通機関のほうが、NHKの放送より生活に必用な優先順位が高いということになる。その関係を次の式で表すと、
「水道、ガス、電気、交通機関>NHK」
のように表せる。
限がないので、一応ここで比較は終わりとするが、この関係をずっと続け、 「(あるもの)<NHK」
となる場合とは、いったい何だろう。「あるもの」よりNHKの番組ほうが生活により必要となるものの名前は何になるのだろう。
ここで再び、思いつくままに、前述の例を挙げてみる。
「水道、ガス、電気、交通機関、衣料、食料、住宅、道路、自動車、ガソリンスタンド、病院、薬局、消防、商業施設(スーパーマーケット・コンビニなど)、飲食店、通信(スマホなど)、パソコン、お酒、紙おむつ、………… > NHK」
更にここで、もう一つ比べてみたいものがある。トイレットペーパー(テッシュ類を含む)である。
家にある、トイレットペーパーがなくなり、どこの店にも売っていない。明日から、生活に支障がでるだろうか。この場合は、これまでの例と違って、代替品がある。古新聞や、古雑誌である。これらをちぎって柔らくなるまで揉んで、使う。それに対しNHKの番組が見れなくなるとして、明日、生活に何か大きな支障が起きるだろか。ここでまでくると、さすがに「大好きな朝の連続小説が見れないくらいなら、トイレの紙は古新聞でかまんする」という人がいるかもしれない。
筆者はトイレットペーパーのほうを優先することとする、なぜなら、上に書いたように、NHKの代わりは沢山あるではないか。いまさら、古新聞をトイレットペーパー代わりに使うのは嫌だ。
公平、中立、公共の福祉、公共放送、あまねく、災害報道、教育、文化の継承、とうの言葉を使い、NHKの放送がないと、国民の生活に重大な支障が出るがごとく宣伝しているが、実態はないのである。
長々と、ページを割き、三度までも上記の文章を採用したのは、NHKの放送がなくても実生活の中で困ることはほとんどないことを示すためである。
再びいうが、本来イラネッチケーを取り付けるまでもなく、「私は、NHKの放送を利用しませんので、受信契約をしません」で済むべきものなのだ。それにも関わらす、「私は、NHKの放送を利用しません」と利用しない旨を表明し、さらに「NHKの放送を利用できないように、NHKの放送を受信できなくする機器(イラネッチケー)を取り付けました」と行動でも、このことを表した。にもかかわらず、NHKはこれを認めようとしないのである。
NHKは、「イラネッチケーは簡単に取り外せる」ことを理由に「放送を受信することのできる受診設備」だと主張する。そこで、「簡単に取り外せない」方法を考えて、これに応戦しているのが、現状だ。
☆現状についての詳細は、解説ページ (2)MonoSophia を参照ください☆
イラネッチケーは、NHKにとっては由々しきこと、まさに死活問題になる可能性があり、この無効性を訴えている。何故か、もちろん、国民のことを考えての事ではない。自身の組織の維持が、大前提なのである。いくら不祥事が起ころうが、8チャンネルを維持し、高い給料を払い、朝から晩まで放送を垂れ流し、多くの関連団体と子会社を従え、巨大化した組織を維持できるのも、放送法64条1項があるおかげなのである。この64条1項の規定を無効にする効果がある、イラネッチケーを簡単に認めることはしないのである。
これまで、我々はNHKを改革できるのではないか、とおもってきた。そこで、下記の文章を再三使用してきた。
我々が問題としているのは、受信料制度そのものではない。受信契約制度なのである。電気、ガス、水道のように、ある物資、またはサービスを提供して、その対価を受け取ることに、何ら問題はない。当たり前のことである。またNHKの存在を否定するものでもない。それは、国民全体できめることだ。NHKの番組内容、料金に満足していて、放送を楽しんでいる人に対しては、何も言うことはない。 問題の核心は、放送法64条1項の「受信機を設置した者は~契約しなければならない」というところにある。本来ならば、「放送を利用する者は~契約しなければならない」とすべきなのだ。この改正を求めているのである。それがまた、NHKの改革を促進でき、真に国民に必要な放送局となると思うからである。 |
上記のように、我々はNHKの存在を否定するのではなく、改革を求めているのである。ところが、NHKがあくまで、既得権益をまもり、組織の維持に汲々とするのであれば、その方針を変えなければならないかもしれない。つまり、NHKの打倒である。NHKの改革題から、政治問題に発展させ、打倒NHKとしなければならないのかもしれない。