NHK受信料問題 為政者の甘い夢 中立性について

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  <為政者の甘い夢>         

NHKの説明

 NHK受信料について、次のように説明している。
NHKは、受信機をおもちの方から公平にお支払いいただく受信料を財源とすることにより、や特定のスポンサーなどの影響にとらわれることなく、公共の福祉のために、みなさまの暮らしに役立つ番組作りができます。学校放送、福祉番組、災害情報など、なくてはならない放送をお届けできるのも、受信料制度があるからです。」

<受信料制度そのものに問題があるわけではない>

 再びいうが、我々が問題としているのは、受信料制度そのものではない。受信契約制度なのである。電気、ガス、水道のように、ある物資、またはサービスを提供して、その対価を受け取ることに、何ら問題はない。当たり前のことである。またNHKの存在を否定するものでもない。それは、国民全体できめることだ。NHKの番組内容、料金に満足していて、放送を楽しんでいる人に対しては、何も言うことはない。
 問題の核心は、放送法64条1項の「受信機を設置した者は~契約しなければならない」というところにある。本来ならば、「放送を利用する者は~契約しなければならない」とすべきなのだ。
 ところが、放送は電波という媒体を介しておこなわれている。この電波は、一度発射されると、どこの誰が受信しているか判別することができなかった。放送を視聴している者を特定できないという特殊性のため、「受信機を設置(=利用者)したものは~契約しなければならない」と間接的に、利用者を推定するよりほかに、利用料を徴収する方法がなかったのだ。この利用者を間接的に推定しているため、さまざまな、弊害が現れ始めている。この間接的な規定のため、「放送を視聴していない者からも、受信料を徴収しているい」という、不公平を内在しているのだ。

<報道機関の使命>

 確かに、特定のスポンサーからは影響を受けることはないだろう。しかしながら、新聞、テレビなどの報道機関の最大の使命の一つは、権力から国民を守ることなのだ。権力の最大のものは、国家権力である。「権力は腐敗する」のことわざどおり、政府、与党が長い間政権を握ると、必ず腐敗する。その結果、汚職、欺瞞、隠蔽とうの不祥事が起こる。政府や、与党が悪意を持って、その権力を行使したとき、個々の国民はこれに抗することはできない。その時、報道機関は、これを調査、公表し政権の交代を促す使命があるのだ。
 ところが、今のNHKは、まさに自身が権力を持つ存在になってしまった。その結果、横領、不祥事、欺瞞、隠蔽を自らの内部に持つにいたったのである。本来権力の監視の役割を期待される報道機関が、みずらか腐敗したとき、個々の民衆は一体何ができるのか。こなん報道機関などいらないと思っても、それを阻むものが、放送法64条1項の規定なのだ。「NHKはけしからん」と思って、NHKの放送は見ない、としたとしても、放送法64条1項の「受信機を設置した者は~契約しなければならない」の規定は、強制的に契約を迫り、受信料の支払を強要する内容になっている。このため、巨大な権力を持ち、多くの不祥事を抱えたNHKは存続するのである。この解消こそが、放送法64条1項の破棄、改正を主張するゆえんである。

<為政者の甘い夢

 戦前のNHKは、大本営発表と称して、政府の嘘の情報を流し続けた。その結果、国民に多大な被災をもたらす一因ともなったのである。戦後その経験からの反省を受けて、今の放送法ができたわけだか、「国の影響にとらわれることなく」とは程遠い内容になっている。
 なぜなら、まず、NHKの会長の就任には、国会の承認が必要である。また、予算も国会の承認が必要である。さらに、総務省の施行規則で受信料などを規定されている。まさに、国によって活動が、厳しく監視されているのだ。こんな中で、なぜ「国の影響にとらわれることなく」と言えるのだろうか。NHKに報道の自由などないといえる。NHKの活動には、政府、与党のフィルターが掛かっており、自由に活動できないようになっている。
 NKHは、政府や与党に不祥事がったとしても、これを独自に、ニュースとして流すことなどできない。出来るのは、不祥事の内容が周知の事実となってからだ。とても、独自での調査など思いもよらない。もし、そんなことをして、国会でNHKの予算が通らなかったらどうなる、予算の執行のが出来なくなるため、放送が出来なくなる事態に陥るかもしれない。絶対そのようなことにならないように、あらゆる手立てを講じるのである。その手段の一つとして、総務省から天下りを受け入れていた時期もあったそうだ。また、最近まで、放送内容を放送前に与党に説明に出向いていたそうだ。これでは、戦前に行われていた検閲と同じではないか。
 NHKはこのようなことにならないように、政府、与党に不祥事があったとしても、独自のニュースとして取り扱わないのである。もっとも、不祥事に関して言えば、NHK自身に、山ほど不祥事を抱えており、とても、他人のことまでかまっていられない、というのが実情であろう。このように国の影響があることは、明白な事実なのに「国の影響にとらわれることなく」などと、白々しいことを言う。

 政府、与党はNHKIに対して、「あめ」と「ムチ」で接している。「あめ」は放送法64条1項、「ムチ」はNHKを縛る、NHK設置法とうである。
 本来ならば、テレビメーターの導入が可能になった時点で、放送法64条1項は、破棄、または改正されるべきだったのだ。そして、NHKに対する政府の関与をもなくすべきだったのだ。しかし、今日まで何もしていない。なぜか、政府、与党には戦前の情報統制の甘い夢があるのだ。前述のように、自分たちのコントロールできる、報道機関がほしいのだ。

 放送法が制定されたのは、戦後間もない昭和25年である。この頃は、まず生きてゆくために衣食住が喫緊の問題であったわけだが、戦前の放送による、思想統制、洗脳が政権にとって非常に有効であるという思いは残ったままである。為政者にとって、国民を自身の思うままに動かすことは、まさに夢である。そのために、独裁国では放送を使った、思想統制、洗脳はいまだに行われている。朝鮮半島のある独裁国家で行われている放送を、我々は毎日のように目している。

 現在の放送法は、戦前の教訓をもとに、制定されたといっても、政府、与党はNHKに全くの自由を与えてはいない。形は民主的だが、政府、与党のコントロールの下に置きたかったのだ。なぜなら、戦前の、放送が国民に与える重要性は十分認識していたからだ。しかしながら、昭和25年の時点で、今日の社会の発展を予想だにできなかったことだろう。

NHKをコントロールできても思想統制がでる状況ではない>

 放送法、NHK設置に関する条文を俯瞰すると、NHKは、国民の為というより、むしろ政府与党にとってより必要だったのではないかと思える。つまり、政府与党には自分たちの政策や考えを広く国民に知らせる手段を確保する必要があったと考えるほうが合理的である。
 戦後、ラジオ局はNHK1社で始まる。この時、NHKの重要性は非常に大きいといえる。NHKさえコントロールできればと考えていたことだろう。

 しかし、今、「娯楽と情報」を提供する、媒体は、ラジオ、テレビ、映画、新聞、雑誌、本、インターネット、スマートホン、タブレット、のように、身の周りにあふれている。ラジオはキー局数社、地方局、FM局を含めて、数えるのが難しいのほどだ。
 テレビ局は、関東地域でいえば、日本テレビ、テレビ朝日、TBSテレビ、テレビ東京、フジテレビ、これらのテレビ局が、地上デジタル局、BSデジタル局とある。このほか、BS専門局が20局ほどある。このほか、ケーブルテレビ局も存在する。
 新聞も全国紙数社、地方紙、業界紙は数しれない。
 各種、本、雑誌は町にあふれ、国、県、市町村は図書館をそれぞれ設置している。ここでも、「娯楽と情報」のがあふれている。
 特に、パソコンを利用してのインターネットは、「情報」収集に関しては非常な威力を発揮している。また、買物、予約、銀行機能、各種調査、などテレビが一法的に情報を流しているのとは違い、自分が欲しい情報を的確に入手することができる時代になったのである。
 また、特に最近著し普及している、スマートホンは、電話機能に加えメール機能、さらにインターネット機能を加え、ツイッタなど情報の相互送信が可能である。
 このように、戦後の放送法ができた時と、時代は当時想像も出来なかったくらい激変している。たとえ、政府、与党がNHKをコントロールできても、今は国民への情報統制、思想統制など、想いもよらない。できないことは明白であろう。だから、政府、与党が放送法64条1項の条項を存続させる必要性は何もないのだ。放送法64条1項の条項を存続させることはNHKの既得権益を守るこになるだけである。国民には、何ら利益はない、不利益と政府に対しての怨嗟を生むだけだ。


 NHKの存在意義は、相対的に非常に低くなったといえる。それに反して、組織は巨大化し、膨大な資金力を持ち、自ら絶大な権力を持つようになったのである。そ力を、政府、与党の監視に行使してくれるのならばまだしも、この権力を一般国民に向け始めた。自身の組織の維持、存続のために。このNHKを、真に国民に必要なNHKに変えるためには、放送法64条1項の破棄、または改訂が必要なのである。

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